20. 愛と憎しみが織りなすタマプロダクション(最終回)

タマプロの愛

「子は親の鏡」という言葉通り、田中英二を知ることは大城のぼるを知ることになる。長年誤解されてきたが、田中英二は田中ファミリーではなく大城ファミリーの一員なのだ。大城のぼると田中英二は親子である。二人は血が繋がっていない、ただそれだけのことである。


タマプロの憎しみ

田中英二の人生のスタートは憎しみの連続だった。しかしその憎しみが田中英二をいち早く成長させる原動力となり、彼を大城邸へ向かわせたのである。


タマプロの心

この世は嫉妬が渦巻いている。だから才能あるがゆえに妨害にあうこともある。才能があるからといって成功できるわけではないのだ。田中英二は厳しい。それゆえに田中英二と肌が合わず去っていく者もいた。このような現実の中、田中英二はそれがたとえ納得のいく退社ではなくても、将来性があると判断した人物には、こっそりと作画の仕事を回していたのである。
田中英二は言った「才能の芽を潰すわけにはいかない」と。
※これは先代の話。2代目以降は当てはまらない。


タマプロの最期

愛と憎しみは表裏一体である。愛と憎しみを二重らせん構造のように絡み合わせることで、想像を超えた力を発揮してきたタマプロダクション。しかし時とともに、愛と憎しみの歯車が次第に狂ってゆく。

タマプロの全責任は先代社長『星くん』にある。なぜならタマプロに愛と憎しみをもたらしたのは星くん自身だからである。今回、愛と憎しみのバランス崩壊が行き着くところまで来てしまったため、星くんは苦渋の決断をした。彼はタマプロ全出身者のために「タマプロ完全浄化作戦」を決行したのである。

タマプロが始まって以来40年。いつしか田中英二は星になり大城のぼるも星になった。だから愛の力が少しずつ衰えていくのはやむを得ないことだが、その分、愛のタネである憎しみを癒やして愛の力に転換しさえすれば、タマプロは今でも望む以上の力を手に入れることが出来たはずである。

作戦のフィナーレとして、星くんは『けん』という助っ人を呼んだ。彼は星くんの『影の参謀』と呼ばれた男である。二人はすぐさまフュージョンし、タマプロに向けて必殺技【イケメンビーム】をお見舞いしたのである。2008年タマプロは滅亡した。


ご挨拶

今月をもって、タマプロ創業44周年記念サイト「大城のぼると星城朗二と田中英二」を終了いたします。

このサイトは100年後であっても価値を損なわないよう、なるべく真実を語ったつもりです。もう彼を知る人は少ないので詳細を知ることは難しいでしょう。又、サイトを制作する上で注意はしていたのですが、中には公開してはいけなかった内容が含まれているかもしれません。この点に関しては幸せ数字「44」に免じてお許しください。

田中英二も私たちも、大城のぼる先生には大変お世話になりました。たぶん、田中英二の死後、彼の家族は大城先生とは疎遠にならざるを得なかったことでしょう。深い事情があったのです。許してあげてください。しかしながら、受けたご恩はしっかりと後世の人に受け継がれていったことは確かでございます。大城先生、ご家族の皆様、本当にありがとうございました。

今まで多くの方々に「タマ・プロダクション」は支えられてきました。感謝申し上げます。


ファンのみなさま、いつもありがとうございます。




19. 田中英二と後楽園ゆうえんち

東京:後楽園ゆうえんちのマスコットキャラクター『ドン・チャック』は田中英二(星城朗二)のデザインである。後楽園ゆうえんちは現在名称が変わっていて「東京ドームシティアトラクションズ」という。

ドンチャックは時期により2種類のデザインが存在するが、両方とも田中英二のデザインである。

はるか昔、後楽園側からマスコットデザインを依頼されたのが田中英二である。

初期型ドンチャックのデザインが決定した直後に私は田中英二に会ったのだが、その時彼は以下のようなことを言っていた。

(田中)「ちょっとイメージが違うんだよなぁ」

どういうことかというと、デザインを決定する段階で、後楽園側から「あーしてほしい、こーしてほしい」と横やりが入り、田中英二のイメージするデザインから少しずつ離れてしまったということなのだ。

戦後の日本ではまだまだデザイナーの地位が低くかったこともあるだろうし、田中英二デザインの良さを当時の大人たちにはなかなか理解できなかった可能性もある。

しかしその後、後楽園ではテレビアニメで人気を博したもう一つの田中英二デザイン「ドンチャック」が使われるようになり、ますます多くの子供たちに愛されることとなったのである。

日本における20世紀最高のキャラクター「ドンチャック」は、大城のぼるの愛情を吸収して育った田中英二ならではのデザインである。

18. 吉田竜夫は天才だった

田中英二の相棒の一人だった吉田竜夫。

彼はアニメ会社「タツノコプロダクション」を創業した人物である。
田中も吉田も若くして亡くなっているので、詳しく知ろうとしてもむずかしいところがある。

さて、田中英二が吉田竜夫についてこんなことを言っていたのが思い出される。

(田中)『俺も天才だけど、アイツも天才だ

年下である田中英二が吉田氏に対して「アイツ」と表現しているのは失礼だが、これはプライベートでの会話の一部であるし、二人がお互い対等に仕事をしていた表れであるだろう。又、田中英二自身が自分のことを天才と表現しているのは、それだけの自信と実力があったということであり、そして私たちが彼と相当親しい間柄だから謙遜せずに話しているからでもある。

田中英二が言う「吉田竜夫は天才である」とはどういう意味なのだろうか?経営者として、芸術家として、父親として、人間として、天才なのだろうか?残念ながら、あまりにも時が経ち過ぎていて今となっては分からないweep

しかし、大城のぼる先生の分身である「田中英二」が語っている訳だから、当然「芸術家として天才」という意味ではないだろうか?

タツノコプロ創業者、吉田竜夫は芸術家としてもりっぱ人物であったに違いないsign03

 

17. 【真説】チャージマン研!★魔王編★

田中英二の正体は、漫画家の星城朗二である。

星城氏と言えば「家族愛がテーマの作家」であるから、アニメ「チャージマン研!」に登場するジュラル星人たちは「田中ファミリー」である。つまり、ジュラル星人の頂点に君臨する魔王とは、田中英二の実父である。

このアニメを生みだした「タマプロダクション」という組織は、ジュラル星人『星くん』が作ったものである。そして彼の死後、タマプロダクションは弟たちによって引き継がれたのだから、タマプロダクションの正体は「ジュラルプロダクション」である。

ジュラル星の王子である『星くん』が亡くなると、ジュラルプロダクションは大混乱に陥ってしまったのだが、その窮地を救ったのが『魔王』であった。

しかし、残念なことにジュラルプロダクションは2008年に滅亡したと伝えられている。なぜあれほどの科学力を持つジュラル星人が全滅してしまったのだろうかsign02

もしかすると、すでに魔王さまがこの世にいらっしゃらないのかもしれない。

以前私は、魔王さまにお会いしたことがある。彼はとても優しい顔をしていて、全然恐ろしい存在には見えなかった。でも、星くんの精神力の強さを考えると並の父親ではないのかもしれない。

魔王さま!いったい今どこにいらっしゃるのですか?地獄いや天国からでもいいので援助をお願いいたします。このままでは泉研やバリカンが調子に乗ってしまいます♪

16. 田中英二の漫画・アニメの作り方

遊んで、作って。
遊んで、作って。
遊んで、作る。
遊びまくって、作品を仕上げていく。
田中英二は体のすべてを動員して作品を生み出す芸術家であるshine

田中英二が生きていた時代、今のような参考書がある訳じゃない。自分の目で見えるもの、体験することのすべてが教材だった。外に出て本物を観察し自分のものにする。

貸本漫画時代、田中英二は「超」がつくほどの人気作家であった。その原動力は、たくさん遊びたくさん体験したことによる。漫画からアニメの世界に飛び込んだ後もこのスタイルは変わらなかった。

遊ぶことで心と体と魂を柔軟にし作品を生み出すのだ!無から有を生み出すのは並大抵のことではない。売れない作家も苦労するが、人気作家も又同様に大変である。

少女漫画家には多くの優秀な女性作家がいるが、田中英二は男である。男の視点から少女漫画を描いたのだ。多くの日本女性を観察し完成された彼のデザインはリアルで繊細であるvirgo

現在『おばあちゃん』と呼ばれている世代の少女たちに絶大な人気を誇った田中英二のパワーの源は「遊び」だったのだ。彼は一般人が見れば単なる遊び人だが、手塚治虫のような芸術家から見れば、天才遊び人なのである。

遊んで成長するタイプの芸術家だった田中英二を理解できるのは、芸術を愛する者だけである。

15. イケメン・キチガイパワー炸裂♪

早朝、電話が鳴った。天国からである。

(???) 君にたなびたいことがあるんだ!!○△□☆※★○・・・

 ( 私 )  わかりました。ファンのみなさまに伝えましょう。

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

アニメ「チャージマン研!」に登場する『星くん』の正体は、漫画家の星城朗二である。【星】とは田中英二の漫画家時代のペンネーム「星城」の一文字であり、彼が生涯こだわった文字の一つである。つまり、このアニメを作った田中英二が、星くんなのだ!

田中英二本人がアニメにちゃっかり登場しているのが「第4話:謎の美少年」である。

何十年ぶりにファンのみなさまの前に姿を現したこのアニメも、DVD発売から一年以上が経過した。すでにこのナゾナゾ問題を解いていたファンの方もいらっしゃることでしょう。

このアニメをご覧になった方はもうお分かりのことと思うが、田中英二はキチガイだった。正確には、天才キチガイだった。表現は適切ではないかもしれないが、普通の人には普通のことしかできない。彼は普通じゃないからこそ、常識にとらわれない実行力がある。

キチガイをあなどることなかれ!「天才とキチガイは紙一重」なのだ。

星くん(☆くん)は、女の子にモテモテの少女漫画家だった。その上、師匠と共に生活しながら漫画(絵)を学んだ人だから相当な精神力も兼ね備えている。田中英二は、強くて優しい男だった。

★美少年:星くんは、正真正銘のイケメン日本男子である★

14. 魔術師 『たなかえいじ』

田中英二は、小学生の時から新聞などに4コマ漫画を連載していたそうだ。北海道の地元で天才少年と呼ばれていた彼は、そんなある時、漫画家『大城のぼる』と出会ったのだろう。

彼は小学生の頃から趣味を越えて実践モードに入っていたのだ。すでに10歳の頃には周囲の大人たちに漫画作品を評価されていたということになる。

大城のぼる氏に大切に育てられ、漫画家としてデビューした後すぐに、人気少女漫画家にのし上がったのは当然のことだったのだろう。

田中英二は一流の作家である。
だから彼がつくったアニメは多くの人々を感動させることができるのだろう。そして、彼は漫画とアニメの両方を自分一人の力で制作することができるパワーを秘めた、日本でたった一人しか存在しない稀有な漫画家であるcrown

46歳という若さで亡くなったが、亡くなる数年前からは入退院を繰り返しながらも、雑誌にイラストを掲載するなどして作品を発表し続けた。

そして彼は人生の最後にもう一度、漫画を描いたsign03

しかしながら、発表直前に亡くなってしまったのだcrying
もちろん、すでに連載が決定していたのは言うまでもない。連載が決定した時、当時の小学館?講談社?の社長さんが大喜びしていたのだった。

10歳から46歳までの約35年間の漫画家人生。
人生のすべてが漫画・アニメ一色だったshine

静止画から動画まで巧みに操る魔術師『田中英二』
最期の作品はいったいどんなものだったのだろうか?

13. スーパー漫画家に変身した田中英二

アニメ界の一匹狼だった田中英二は、鉄腕アトムの制作で腕を磨き、アニメが作れる漫画家に進化した【スーパー漫画家】である。

今から40年以上昔の1967年(昭和42)に日本で「マッハGoGoGo」というアニメーションがテレビ放映された。これは2008年にアメリカで「スピードレーサー」という実写映画になっている。

「マッハGoGoGo」の作画は『田中英二』によるものである。これはタマプロダクションの教材の一つで、彼がアニメーターの卵たちにアニメのつくり方を指導しながら制作したアニメーションである。このアニメのスポンサーを獲得するために制作されたパイロットフィルムも田中英二の作画であるpen

このアニメでアニメ界に衝撃を与えた田中英二は、テレビに出演するなどして日本中の人々にアニメーションの魅力を語ったのであるtv

田中英二の作画アニメは30年以上経っているが、彼の作画・脚本・デザイン性は色あせてきているだろうか?

50年、100年先が楽しみなアニメーターであるshine

12. 幸せエネルギーで輝きを増す田中英二の星☆

作品を作ることしかできない不器用な男。それが田中英二である。

お金は大好きだったけれど一切執着することはなかった。稼いだお金はすべて使ってしまう豪快な男である。 

 

作品をつくることに命をかけた人生だった。

大酒をくらい、アイデアをひねり出し、ひたすら漫画・アニメを描き続ける。そしてまた酒をのむ。それを繰り返したあげく体をこわした。病気をした後も酒をのむことで体にムチを打ちながら作品を描いた。死ぬまで芸術家であり続けた男だった。

そんな彼だったから、出来ることなら作品を通して評価してあげたい。しかしそれはほとんど不可能なことなのかもしれない!?

なぜなら、漫画は別としても彼のアニメ作品はすべて他人が所有者だからだ。所有者の都合で表に出たり出なかったりする。

 

しかし近年、そんな状況を一変する出来事が発生した。

それは田中英二が深く関わった作品を所有する会社の一つである「ナック」が、彼のアニメを再び日本、いや世界中の表舞台に出してくれたのだsign01

今回、「星の王子さま」「アストロガンガー」「チャージマン研」というアニメを表舞台に登場させてくれた西野さんには深く感謝したい。

さらにオマケがある。
それは予想通り?の大事件、タマプロダクションの倒産であるsign03

このサイトはタマプロが倒産してくれたおかげで生まれたと言っても過言ではない。残念なことではあるけれど、タマプロの創業者である田中英二氏のことを語るためにはジャマな存在なのだ。

 

今年、タマプロは創業開始から【44年】という記念すべき年を迎える。「44」という数字は「しあわせ」と読む数字なのだclover

今年の田中英二からは目が離せないhappy01

幸せエネルギーを使って彼は何をするつもりなのだろうか?こうご期待。

11. ginoさんに頂いた貴重なコメントを大公開!

今日公開するコメントは、2年前に頂いていたものなのですが、私(管理人)がどうしても、大城先生と田中英二のラブラブ関係を全世界に正式発表したあとに公開したかったので、お時間をいただいておりました。

コメントを送って頂いたginoさんは、田中英二の教え子さんのようです。ginoというお名前はネット上でのハンドルネームでしょうから、アニメ界での正式なお名前ではないと思います。

 

↓↓ 以下、gino(ギノ)さんのコメント ↓↓

今晩は、はなび様。
gino です。

ある人とは、誰でしょうか?
少し気になります。
 注釈:ある人とは「田中英二さんと仲良く遊んでいた人物です」

はなびさん も、田中英二 氏とタマプロダクションに
かなり近しい方なのでしょうか?
 注釈:私自身、田中英二さんとはとても親しい間柄です。しかし、タマプロダクションに関しては近くないです。ただ、監視は怠りませんでした(笑)

僕がタマプロに通っていた頃、社長室(田中英二 氏の部屋)は
二階にあって、

作り付けの書棚に [星城 朗二] の本が並んでいました。
社長の漫画を描く時のペンネームです。
はなびさん は、もちろん知っていると思いますが。

社長が漫画を描いていた頃の友人に、

宇田 八郎 という人がいます。

その宇田さんが、社長はネ 漫画を描く時に
青い線で薄くアタリ( ネーム )を入れるんだ!

その後、いきなりペン入れしちゃうんだ、
やんなっちゃうよナー もう
天才といると、凡人は叶わないよ と
時々 もらしていました。

社長は、ちょっとしたトラブルが 竜の子とあった時
みんなの前で吉田竜夫さんに電話をしてくれたり、

アトムはこうやって描くんだよ と
目の前で描いてくれたり、

昼休みには、みんなで卓球をしたりして、

今では、遠い むかーーーーーーーーーーーし の
お話です。

とりとめのない話ばかりで すみません。
今日はこれで失礼します。

↑↑ コメントは以上です ↑↑

 

少し説明させていただくと、田中英二さんはタマプロダクションを設立する前に「虫プロダクション」所属のアニメーターでした。そこでは、アニメ「鉄腕アトム」などの作画の責任者をしていました。

話によると、田中英二さんを虫プロに誘ったのは手塚治虫さんなんだそうですheart01

 

P.S.
ginoさんのコメントは、このサイトの「幸せプロダクション」という記事に投稿されたものです。そちらの他のコメントと一緒に読まれると話の流れが分かると思います。

又、私は以前「はなび」という名前で「幸せブログ」を書いていたことがありました。

 

ginoさん、貴重なお話を本当にありがとうございましたsign03

10. 大城派の伝承者『星城朗二&田中英二』

鉄腕アトムの原作者で知られる漫画家の手塚治虫に「美少女を描かせたら日本で田中さんの右に出るものはいない」と言わしめたのがアニメーター田中英二である。

田中氏が漫画家として活躍した時代、漫画はレンタルだった。それが貸本漫画である。当時の少女漫画はストーリーもさることながら、デザインが特に重要だった。漫画本を借りにくる少女たちは自分の気に入るデザインの漫画を借りる傾向が強かったのである。

少女たちの厳しい目によって育まれた田中英二は、その後活躍の舞台をアニメーションに移し、彼独特の作風・画風で日本中の人々を魅了した。

近年、田中英二の組織したアニメプロダクションが40年の歴史に幕を下ろした影響で、深い眠りについていた彼が目を覚ましたようだ。

なんと30年ぶりの復活である!

漫画家『大城のぼる』のすべてを継承した内弟子の一人として、田中英二は今後私たちに何を見せてくれるのだろうか?漫画とアニメの両世界を愛した彼ならではの活躍を期待したい。

9. みつばちハッチの超秘密

日本の代表的なキャラクター『みつばちハッチ』に会ったことはあるだろうかsign02

1970年(s45)にテレビ放映された「昆虫物語みなしごハッチ」の主人公みつばちハッチ。タツノコプロダクションから一部DVDが発売されていてレンタルショップにも置いてある今でも人気のアニメーションだ。

ミツバチ親子の愛の物語というストーリーで、登場する『みつばちハッチ』や『みつばちアーヤ』といったキャラクターは田中英二のデザインである。田中氏といえば「タイムボカン」の作画監督として知られるアニメーターだ。

ハッチは世界的に有名なキャラクター『ミッキーマウス』と同じ擬人化キャラクターである。そう!ハッチのデザイナーである田中英二氏は『ウォルト・ディズニー』や『アブ・アイワークス』に影響をうけた人でもあったのだ。

【問】ハッチや女王バチなどのサイン色紙がほしい場合にはどうすればいいのか?

【答】みつばちハッチは大城のぼると田中英二が出会ったからこそ生まれたデザイン。よって大城DNAを受け継いでいる「タマプロダクション出身のアニメーター」にお願いするのがもっとも良いだろう。ぜひ40年の歴史を刻んだタマプロのアニメーターに描いてもらってください。

デザインはデザイナーの人柄が現われるもの。
田中英二が生涯でもっとも影響を受けた人物が漫画家の大城のぼる。田中氏にとって大城のぼるは、本当の父親以上の存在であり目標でもあった人だ。

今までそしてこれからも、大城のぼると田中英二の「愛という名の星の光」が日本中を照らし続けていくことだろうshine

8. 北海道出身の天才漫画家『星城朗二』

北海道の大地が生んだ漫画家『星城朗二(せいじょうろうじ)』
第二次世界大戦前に生まれ、戦後に活躍した漫画家である。

北海道の地元で「天才少年」とよばれていた彼は、16才の時漫画家をめざし上京。大漫画家『大城のぼる』に師事した。

その後、師匠:大城のぼるに徹底的に鍛え上げられた少年は『星城夢二(せいじょうゆめじ)』というペンネームで漫画家デビューを果たす。

デビューするとすぐに頭角を現し人気漫画家になる。のち星城夢二から『星城朗二』というペンネームに改名し人気作家の一人に数えられるようになった。

星城朗二は少女漫画家。家族などをテーマとした「愛」を届ける漫画家であったから女性にとても愛された漫画家だった。又、彼の絵は大城のぼる画風だから「心の温まる作風」として多く人たちに親しまれたのであろう。

漫画家の頂点を極めた彼は、その後アニメーションの魅力にひかれ漫画家からアニメーターに転向する。そしてアニメ作画スタジオ「タマ・プロダクション」を組織し【大城のぼるの御旗】をかかげてアニメ界でも活躍した。

アニメーターになった『星城朗二』は、本名である『田中英二』に戻り、自らアニメを制作する過程を通して、大城のぼる先生から受け継いだものを教え子たちに伝えた。46才という若さで他界したが、その後も彼の教え子たちによって2008年までの40年間「大城のぼるDNA」は継承され続けた。

2008年の倒産によってタマプロダクションという器が無くなってしまったが、個人レベルでは今後も変わらず「大城のぼると星城朗二の子供たち」は生まれ育っていくことだろう。

最後に、日本漫画と日本アニメをつなぐ【大城のぼると星城朗二の子供たち】に感謝するとともに、今後益々のご活躍を心よりお祈りいたします。
 

7. 星になった田中英二

アニメ作画スタジオ「タマ・プロダクション」を設立した『田中英二』は1982年(昭和57)に永眠。46才だった。

彼の死後と同時に「タマプロ」という組織は終わる運命だったが、タマプロの消滅を望まない人たちがいた!それは、田中英二の教え子たちであったsign01

田中英二が天空の星shineとなり地球から姿を消したのと同時に、彼の奥様や子供たちも「漫画とアニメの世界」から完全に撤退してしまったが、幸いタマプロには『西城隆詞』という人物がいた。西城氏は田中英二の教え子であり実弟である。

「タマプロ」という組織と『西城隆詞』という人物が残っていれば、タマプロは生き続けることが可能だったのであるsign03(ちなみに2008年のタマプロ倒産では彼(西城氏)がいなくなってしまったので、今後の復活は残念ながら不可能)

最終的には、弟たちがタマプロを引き継ぎ、その後約20年間、静かにではあったがアニメーターを生み出し続けた。

「タマ・プロダクション」42年の歴史の中で生まれたアニメーターや演出家などの芸術家たちはすべて【田中英二の子供たち】であるclover

6. 大爆発!で復活するタマプロダクション

「タマ・プロダクション」(タマプロ)は漫画家『手塚治虫』の「虫プロダクション」で経験を積んだ、漫画家『田中英二』により設立されたアニメ作画集団である。

タマプロの始まりは1965年説と1966年説があるみたいですが、私の独断で遅い方を選びます。タマプロ設立は「1966年2月吉日、創業」

タマプロは、初代社長:田中英二氏が亡くなってから大失速sign02していますがこれはやむを得ません。彼と同じことが出来る人はいません。
しかし彼の教え子たちのおかげで40年以上の歴史を刻むことができました。とても小さな組織ですが「やっていたこと」は他のアニメプロダクションには到底真似の出来ないことです。それを可能にしたのは田中英二という人物の「大きな夢」が形になったアニメプロダクションだからです。

簡単に言うとタマプロは学校。大学や専門学校のような学びの場です。会社ですが、ずっといる必要はありません。時期が来たら卒業して良い会社です。創業者の社長(校長先生)である田中英二さんはそういう想いでした。タマプロは一つの足場、土台です。

タマプロはどういう終わり方だったのか?
詳しいことは分かりませんが、私が独自に調査した結果タマプロは2008年に倒産した模様です。2ch(2ちゃんねる)などを見るとなんか大爆発の予感が…shock

残念です。。。でも大丈夫なんですnote
不謹慎な言い方かもしれませんが、大爆発bombは美しい花火shineだと思ってください。

タマプロは倒産したからこそ復活するのですheart01
やっと創業者である田中英二氏のことを話せる時期がきましたsmile

「タマ・プロダクション」
1966年(昭和41)…スタート
2008年(平成20)…エンド
☆42年間☆

5. タイムマシンといえばタイムボカン

私はタイムマシンで1975年正月の日本に行きます。

場所は東京。

竜の子プロダクション社長『吉田竜夫』とタマプロダクション社長『田中英二』がアニメ「タイムボカン」制作の打ち合わせといいつつ、大好きなお酒をグビグビ飲んでいる所に乱入したいなnote

そして、その後待ち受ける二人の運命を伝えたい。

吉田、田中両名はタイムボカン放映から10年以内に40代の若さでそれぞれ他界してしまうのだsign03

二人とも早く死にすぎ!あと10年、いやあと5年でいいから長生きしてほしかった。二人にはもっと体を大切にするように伝えたい。

とりあえず二人にあったら乾杯note
でもアニメ「タイムボカン」が大成功することは内緒にしておこうsign01

最後にお二人にサインをお願いしましょう♪
特に田中英二さんには『早川りえちゃん』『泉キャロンちゃん』を描いてもらいましょうheart04

→抽選で10名様に二人のサイン色紙をプレゼントsign02

コネタマ参加中: タイムマシンがあったら、どの時代に行きたい?

4. タマ・プロダクションは2種類ある

アニメ作画スタジオ「タマ・プロダクション」は略して「タマプロ」と呼ばれます。この会社は時代によって大きく二つの「色:カラー」に分かれます。大きく変化したのは社長交代の時。

紅白で分けてみると、
組…お兄ちゃんのタマ・プロダクション(兄:田中英二のタマプロ)
組…弟さんのタマ・プロダクション(弟:田中道哉のタマプロ)

flag兄のタマプロは芸術家が会社を経営しているという特徴をもつ。
dash弟のタマプロは…sign02

flag兄はアニメーターを育成するためのアニメ作りが目的で、経営は二の次だった。
dash弟は…sign02

ここ数十年の成績は当然、現役だった弟さんのタマプロ(白組)がダントツの1位でしたが、2008年の倒産によって状況が変化してきました。ネットで話題になっている「チャージマン研!」のタマプロダクションは、お兄ちゃんが社長だった時のアニメです。ということは2009年現在、お兄ちゃんのタマプロ(紅組)が優勢かnote

今後どうなるか楽しみですhappy02

3. お兄ちゃんを忘れているタマプロダクション

なんということだsign03

Wikipediaの「タマ・プロダクション」に創業者の「田中英二」の名前が無いshock

それなのに、兄:英二さんの代表作「チャージマン研!」がちゃんと載ってる( ゚д゚)ポカーン

誰に指摘すればいいんだろう?

所在地不明らしいから東久留米の会社に行っても存在していないと思うし。

弟:西城さん、どーにかしてー!エネルギーの場合じゃないよっthunder

<証拠写真>
Tamapro2a

2. 田中英二生誕73年

今日(5月10日)、漫画家「田中英二」生誕73年を迎えましたshine

彼は1936年(昭和11年)生まれ。「二・二六事件」があった年です。

田中英二は現在アニメーターとしての方がよく知られていますが、当時は漫画家で有名でした。
アニメ「みなしごハッチ」や「チャージマン研!」を観ると何か感じるものがあると思います。

一緒にアニメを作った人物としては『手塚治虫』『吉田竜夫』『西野聖市』がいます。

2009年5月現在、ご存命だったら…

one手塚治虫…80才(虫プロ)
two吉田竜夫…77才(竜の子プロ)
three田中英二…73才(タマプロ)
four西野聖市…?才(ナック)

4人の中で、西野さんだけは今もお元気だと思います。
噂では田中英二さんより年下らしいから西野さんは60代後半かな?

one手塚治虫の虫プロは、田中英二が所属していたアニメ会社。
two吉田竜夫が生きていた頃の竜の子プロダクションは、作画の多くを田中英二(タマプロ)にたよっていた会社。
three田中英二のタマプロダクションは、元漫画家の社長がアニメーターを育てながらアニメを制作していた会社。
four西野聖市(西野清市)のナックは元アニメ制作会社。

このサイトは私から天国に住んでいる彼へのプレゼントですpresent

田中英二さん誕生日おめでとー★

1. 幸せプロダクション

1965年(昭和40年)作画スタジオ「タマ・プロダクション」が設立される。先代社長である田中英二は他界しているので、現在は別の人が経営しています。近年、設立40周年を迎えました。

実は、「タマ・プロダクション」は「幸せプロダクション」でもあるのです。なぜなら、住所が「東京都東久留米市町(さいわいちょう)」にあるからです。
さらに、「幸町○丁目」です(^^)

4(し)と4(し)をあわせて、し・あわせ☆彡

私はタマプロのことを勝手に、サチプロ(幸プロ)と呼んだりしています♪

P.S.
田中英二がタマプロを設立した当初とは住所が違います。

大城のぼる

  • (おおしろのぼる)
    戦前に活躍した漫画家で教育者。

星城朗二

  • (せいじょうろうじ)
    少女漫画家。星城夢二というペンネームもある。

田中英二

  • (たなかえいじ)
    漫画家でアニメーター、経営者で教育者。タマプロダクション創業者。

タマプロダクション

  • 1966-2008
    田中英二が設立したアニメ作画会社。虫プロダクション、東映動画、タツノコプロダクションなどのアニメ作画を担当した。

タマプロダクション★ドロップアウト

  • 大倒産!負債総額は1億5千万円。本命日は2008年3月末日。頑張りすぎちゃったようですね。負債額が物語っています。お疲れさまでした。

タマプロダクション★キチガイ VS カンチガイ

  • 星城朗二(田中英二)が生きていたら、きっとめちゃくちゃな行動で世間の注目を浴びていたに違いない。ある程度の年齢になれば、「英二さんボケてきたんですね?」で済むだろうけれども。話は変わるけれど、タマプロって、平成に入ってから急速に変化しました。何をカンチガイしたのか?それまで使っていた社章を変更してしまったのです。ずっとキチガイ・マークを使っていれば良かったのに・・・星くんの社章をファンの皆様にお見せしたかったです。とっても残念!!
無料ブログはココログ